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歴史・地理領域例会
2月 2 @ 2:00 PM - 4:00 PM

第2回 伊形・土々呂地域調査 報告
調査概要
- 日時:午後
- 場所:上伊形町(通称「赤水の地蔵さん」「耳神様」)
- 目的:歴史的価値の調査
調査内容
- 地元では「お地蔵さん」として親しまれてきたが、**実際には僧侶の供養塔(無縫塔・卵塔)**だった。
- 元々は赤水峠にあったものが、不明な時期に現在地へ移転されたと推測。
- 正面の塔身には「地蔵尊龕」と**天文十七年(1548年)**の銘が確認された。
- 基礎部分:「開山」
- 塔身部分:「前永祥七歩孝和尚」の刻銘
- 戦後より「耳神様(みみがんさん)」と呼ばれるようになったが由来は不明
発見の意義
- 『延岡の石塔を訪ねて』(まがたまひみこ会編)にも未掲載
- 延岡市の担当部署でも未確認の史跡
- 調査結果を史談会会報誌『縣』第30号で報告予定。
1回目の調査での情報
伝承の背景と内容
- 地蔵の移設とその由来
- 元の場所と移設
かつて「赤水峠」に建立されていた地蔵(無縫塔)が、後の世代によって山麓の場所に移されたと伝えられています。これは、地域の歴史的・宗教的な流れの中で行われたとされ、今もその遺構や伝説として語り継がれています。
- 悲恋伝説:若和尚と村の娘
- 若和尚の運命
赤水興禅寺に所属していた若和尚にまつわる伝承があり、彼は村の娘との悲恋に陥ったとされています。伝説では、若和尚は破戒僧として親寺である伊福形宝蔵寺に預けられるという経緯が語られており、その結果、地域内で彼への同情や複雑な感情が生じたとされています。
- 庵と憤死の伝説
若和尚は、当時村の中心であった『受の口』地区を見下ろす山頂に庵を構え、日々赤水の景色を眺めながら自身の潔白を訴えたという伝説も伝わっています。最終的には、その苦悩の果てに憤死したと語られ、これが一層悲劇的な物語として地域に刻まれています。
- 地蔵建立の意味と地域の信仰
- 供養と謝罪の意
伝承によれば、赤水村の人々は、伊形から赤水へと向かって夜な夜な飛来する怪火に恐れを抱いていました。これに加え、若和尚に対する何らかの「謝罪」の意味も込められており、その鎮魂のためにこの立派な石造りの地蔵が建立されたとされています。
- 施主の名前が刻まれていない理由
地元では、この地蔵には施主の名前が刻まれていないことが特徴とされています。これは、個人の功績や名誉ではなく、地域全体の祈りや償い、そして伝承に基づいた供養の意が前面に出されていることを示しています。
- 関連する行事・儀式とその変遷
- 庚申講の中断
伝承の中には、地域で行われていた「庚申講」にも触れられています。お庚申さんを祀るこの講は、かつては地域の信仰行事として重要視されていましたが、明治初年に刃傷沙汰が起こったことを契機に中断されました。これにより、伝統的な儀式が歴史の一部として語られるとともに、その中断の背景も伝えられています。
- 赤水興禅寺の五輪塔との関連
- 五輪塔の存在と意味
また、伝承の中で赤水興禅寺にある五輪塔についても言及されています。天文銘が刻まれたこの五輪塔は、無縫塔が建立された翌年に造立されたとされ、地域での供養が正式な形で行われた証と解釈されています。これにより、地元の伝承が一つの歴史的事実として認識される側面が強調されています。
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